現在の天守は1985年(昭和60年)に復元(RC造)されたもので、大天守(3層4階)、続櫓、小天守が連結された形で、近世初期の望楼型である。(市郷土資料館) 市街地を一望する福知山盆地の中央に突き出た丘陵地にあり、その地形の姿から臥龍城の別名を持つ。 曲輪は、福知山盆地に突き出た丘陵地の先端から、本丸、二ノ丸、伯耆丸、内記丸と続く連郭式である。本丸と二ノ丸にはそれぞれ御殿があったが、城の中央に位置し規模の大きい二ノ丸御殿が中心施設であったと思われる。 また、その両側面の平地に設けた堀の内には、大手門のある北側に対面所や武家屋敷を、南側には蔵、馬屋、鷹部屋、庭園を配していた。 更に内記丸に続く郭外の台地には、平侍の長屋等があった。現在、本丸以外の曲輪は残っておらず、廃城後の「切り通し」や鉄道敷設によって、これらのあった丘陵地形は分断されてしまっている。 尚、現在の復元天守へ登るための通路は、本丸に移された朝暉神社への参道として後に作られたものあり、本来の城道は現在住宅地として利用されている二の丸側から通じていた。 石垣は穴太衆による野面積みである(福知山市指定文化財)。石材に墓石や石仏が使用されるのは、織田信長やその家臣ゆかりの城には多々見られることであるが、その使用数の夥しさとしては、郡山城 (大和国)跡に並び珍しい例である。これはただ単に石材や、時間が不足していたためだとか、権力の強さをほかの国々に誇示するため、等さまざまな説があり、正しいことはまだはっきりしていない。 本丸の井戸「豊磐井」(とよのいわい)は、城郭内の井戸として日本一の深さ(50m、海面下に達する)を誇る。 (ウィキペディアより)
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